けど、でも。

2週間前、書いてる途中で消えてしまったと思ってたのが、バックアップされて残ってた。以下。

 

- - - -

 

きのうは、高校の時の(こういう時、高校時代の、と書くことは、一時代築いた、みたいなことを連想させ、私にはそんなたいそうなものはないし、と、ただ"時"と書くに至る。毎度脳内でこの手順を踏む。)音楽の先生の、テノールリサイタルに出掛けた。

 

ぐずぐずしていて、15分ほど遅れて着いた。先に一人待ってらした女性とともに、曲の切れ目でホールに案内される。前から2列目、左端の方にかけた。一列後ろの、私の真後ろに座っている男女が、「あのピアノは伴奏用だから、まあこう、控えめなのだな」、「そうやん、まりちゃんいつもここの鳴らへん〜っていうてるねん」だとか、「まだ聴く?いてもいい?」、「いいよ、せっかく来たんやから。なに、帰る?笑」みたいな会話をしていて、今思い返して、そんな風な気を使わないといけない相手なら、一人で来ればいいのにな、と考えた。

 

リサイタルは私にとって、とても素晴らしく、ここのところ見てるだけのツイッターに色々と気持ちのまま書きつけた。

 

- - - - -

ここまで。

はて、ツイッターにはなんて書いたのやっけ、と、アプリを切り替えて戻ってきたら消えてたのやった。

 

先生のリサイタルに行ったのは何年ぶりやろう。4,5年になるのかな。

ステージに立つ先生は、お変わりないようでいて、でも、今回初めて、歳を重ねてるなあ、とも思った。そらそうだよなあ。高校を卒業して18年か。先生から見たわたしの変わりっぷりはすごいだろうな。変わりっぷりっていうか、老けっぷり。


f:id:varjoja:20201130113907j:image


f:id:varjoja:20201130114006j:image


f:id:varjoja:20201130113937j:image

 

ギリシャ民謡では、アンゲロプロスの映画が浮かんだし、「雪の降るまちを」ではカウリスマキの映画が観たくなった。

 

高校生の時、生きる意味ってなんなんかな、と考えていて、もしかしてこの先一生、より良いと思うものを探して、見つけて、手に入れて、でまた、さらにいいと思うものを探すの??ってびっくりして、唯一、これが絶対みたいな答えはないのん?とくらくらして、先生に「わたしは、なか卯の親子丼で十分美味しいし、もうそれ以上はいらんねん、それじゃあかんのかな」というような旨質問したら、「それが人生だよ、藤原〜」と言われて、上質のものを知っている大人の先生が、そうだというなら、やっぱそうなのか、と観念したというか、納得した。

 

その先生の歌を聴いて、わたしにも浮かび上がるものがあるようになったんだな、と今気付いた。その場で自分のうちにわきあがるものや、ほぐれる心とかのほかに、これまでに集めてきた「良いもの」が浮かぶことが豊かで嬉しいなあと思う。もう、好きだとか、いいなとか、素晴らしいなと思うものなど増えてほしくない、と今でもやっぱりたびたび思うけど、この高校生の時のことは、わたしの大きな指針になってる、はず。よいなと思うものだけ食べて、触れて、見て聞いてとかはできひんけど。でも。


f:id:varjoja:20201130115352j:image

 

今日は、ほんまは昨日の自分がいかにだめだったか書いておこうと思ってアプリを開けたけど、期せずして前のが戻ってきたのでまあこれでいいや。

 

TVerで見た、激レアさんで、お寺の息子で、UFOが好きで町おこしをした人が、「"修行"は修整しながら行う」って言ってた。あまりピンとはこうへんかったけど、なんか残った。ちょっとずつ進む。