絵を観て涙が出たこと

徳岡神泉 深遠なる精神世界

堂本印象美術館にて

 

f:id:varjoja:20181205202757j:image
f:id:varjoja:20181205202754j:image


絵を観て、じんわり涙が浮かんだことは、これまでもあったけど、ぽたぽたと落としたのは初めてだと思う。何も言葉が浮かばないで、涙が落ちる。

志村ふくみさんの着物が、左右両側に並ぶ展示を前に立って、ただ泣いた時と似ていた。

帰るのが惜しくて、引き返したりしながら、たぶん結局3周ほどまわった。


ああ、あの絵の前に立つと、また泣くかもしれない、と、そういう気で絵を観上げると、頭がもっていかれる感じがして、そのあとぽたぽた泣いた。

頭がもっていかれる、と浮かんだけど、全開になるというか、開ききって境目がなくなるみたいな、そんなことかもしれない。

何度かそういうことを繰り返して、くたくたもくたくたになってようやく、図録を買って美術館を出た。


涙が出たのは、全部大きな絵の前だった。大きな絵は、自分の寸法を小さくしようと試みずとも、そのままで包まれるようやから、いいな、と思う。わたしは、どこか飲み込まれたいと思ってるのやと思う。映画も大きなスクリーンで観るのが好きだ。


ここのところ、映画やなんかで、そこに何が映っているかということは、わたしの命が欲するかどうかということに、関係がないのかもしれない、ということを思っている。

美しいとか、感動するとか、素晴らしいなど、それは、「命が欲する」というものだと、先日に川口美術にて杉本貞光さんとお話しして教えていただいた。とても心にすとんと落ちるお言葉だった。

「命が欲する」ものは、焼き物であれば形などその見た目、映画であれば物語、絵であれば何が描かれているかで、そうなのか・そうでないのか、を感じとっている、はずなんやけど、目の前のものを命が欲している、愛おしいと思う、胸に抱きたくなる時、それがその形を取っていなくても、そう思うのではないかと、思ったりする。ということを、ここのところ思う、と言いたいのやけど、さっぱりうまく書けている気がしない。


ずさんなことを言えば、目に見えない何かによってもたらされる、そこに込められた気持ち、に由来する、となるけれど、果たしてそれでいいのか、もう少し、何か掬いきれていない、余地があるように思う。


今思うと、絵の前に立って、涙が出ていた時の感覚は、たしか生後1日か2日だった、友人の赤ちゃんに会った時の、途方もない無垢が目の前にあると思って感じたものと似ていたかもしれないなあと思う。真理というものは、無垢なんやろうか。

 

f:id:varjoja:20181205203118j:image

 

(追加)

友人の子に会ったのは、生後4日だった。その日の日記。

http://varjoja.hatenablog.com/entry/2015/08/30/213606