家の階段から落ちた。この家では、たぶん、2年ぶりくらい、3度目。
おそらくは1段目の着地で足が滑り、一度後頭部をしたたかに打ち付け、そのままお尻を打ちながら一階まで滑り落ちた。
うずくまり、しばらく動けないでいると、ややあって、一瞬全身に汗をかいた。
今日は同居人もいたので、階下で音を聞いて出てきてくれた。そうでなかったら、わんわん泣いていたかもしれない。
出掛けようかという気でいたけど、布団に舞い戻り、また3時間ほど横になった。
今は、急に動くと目の前が暗くなったので、慎重に動いている。あと、尾てい骨と右足の親指が痛い。明日になったらまた、なんかしら痛いところが出そう。
脳が揺れるって、こういうことなんかなあ。レスラーや、ボクサーってすごいなあ。
後頭部を一発やられただけで、3時間は寝転がらないといけないわたしには果てしなく遠い。
2年前に落下した時は、仕事に出掛けようとしている時で、今日よりは数段下から落ちたような気がする。
元より仕事も身体もきつかった日々の中、階段から落ちて、もう全部がいやだという気持ちが開いて泣いた。
雨の日、地階にある喫茶店へ行こうとして、滑り落ちたこともあった。それは前にここに書いたような気もする。
小学生の頃にも一度落ちて、実家の階段は途中曲がっているL字の階段で、その曲がっている段にたまたまダンボールが置いてあって運が良かったと言われた覚えがある。
人は一生のうち、平均で何度階段から落ちるんやろう。
34才、たぶん5回目。
無職で、職業訓練が残り半月、いよいよ切羽詰まり出した今、弱り目に祟り目のように落っこちてしまうなんて、なんかのバチが当たってんのかなあ、と思ってしまう。
神様とか、なにか大きなものが、何か言うてくれてるのかな、とか思ってしまう。
で、振り返りいろいろと思い浮かべて、それは、決して褒められた生活ではないかもしれんけど、そこまで叱られる心当たりがないような気がして、いや、そういうところが慢心なんやろうか…とぐるぐるとする。
そして、今こうして日記を書いていて、もしかして、ここらで一回しっかり泣いとき、ってことやったんかな?と浮かんで、少ししっくりくるような感覚があったけど、それは都合よく思い過ぎやろうか。
泣きたいことにあふれているけど、今の自分を直視する体力もなく、もう長く目をそらしてごまかしてる。
ちょっと前に、じゅうまんとんの加地さんがツイッターに「テトリスの上の方でしのぎ続けるような日々」といった言い回しをしてはっていいなあ、と思ったんやけど、まさにそんなような。足元見たらその瞬間にゲームオーバーする。
階段落ちたあと、寝転がってる時に、このまま吐いて死んでしまうとか、っていう想像をした時にとても投げやりな気持ちになった。
よりよく生きたいと思って選んだはずの選択肢の先で、諦めかかってんだなあ、と思うと悲しくなってきた。
今夜は、今季初の湯たんぽを抱いて、オードリーのラジオを聴きながら寝ることにするから、きっと大丈夫。
たぶん、よりも、きっと、の方が希望が感じられていいですね。昨晩のラジオまだきいてなくてよかった。これから聴けるから。希望っぽいものを摘み上げて。