日曜は新月

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2015/09/11

アメリカの、同時多発テロ事件から14年。
17才の高校2年生だったんだな。
夜更かししていて、テレビで知ったような記憶がある。
日本とニューヨークの時差は13時間だそうだから、
最初の飛行機がビルに衝突したとき、日本は夜11時前くらいだったのだろう。
テレビをじっと見つめて、その映像をみていながら、まったく信じられなかったし、そこにいる人や、その家族のことを想像することも出来なかった。

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という映画を、2012年の公開時に観た。
先日「さよなら、人類」を観に行った時、上映前に、名画リレー上映の予告としてこの映画の予告編がかかった。
その予告編を直視できず、2015年の今でも、とても、もう一度観ようという気持ちにはなれなかった。


最近、これに限らず、
どの範囲、どの程度、想像力を持とうとすることが、適切なんだろう、と、
さまざまなことに対して思う。

想像力を巡らせておきながら、じゃあ自分はどうするのか、という時に、
手札がないのは、とても苦しい。
そして、そんなことを思っていること自体にも、自分はつくづく弱く情けないと感じる。

7年ほど同じ携帯電話を使い続けていて、そこからスマホに変える時、
漠然と、けれど、大きな壁みたいに立ちはだかっていたのは、
入ってくる情報量が多くなることへの恐怖だった。

よく調べた・考えた末というよりは、なんか怖い、という、本当に漠然とした、本能的な恐怖心だったと思うけど、
実際にスマホを持った今、あながち見当違いの恐怖ってわけじゃなかったような気がしてる。

それは、スマホを持たなければ避けられたものかというと、そういうわけではないだろうけど、
結構象徴的だとは思う。

情報に対する、落とし所、消化力の強さなんかを考えて、想像力をなるべく放棄せずにいられるように、したい・いたい。

今日は、心にやる気の火が灯り、身辺整理をすこし進めることができた。
すこし、ではあるけど、わたしとしては、快進撃といってもいい出来事だった。
これから、日曜日の新月に向かってすっきりとできるよう進めたい。