白いシャツを着

今日もまた死に体だった。

わりとちゃんと朝起きられて、食パンにアボカドとクリームチーズと、初めてバターも一緒にのっけて焼いてみたりして、今日はちゃんと生きられるかもしれない…!と思ったらだめだった。

 

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ちなみにバターで特別美味しくなることはなかった。真ん中の不自然なくぼみがそれ。

フリップアップの山型食パンはうまいなあ。しかし、買うときに「山食もひとつください」と、山型食パンを山食と略して言ってしまったことを、1週間ほどだった今まだ少し後悔している。(パンは冷凍しています)


テレ東アプリでゴッドタン観て寝て、オードリーのオールナイトニッポン聴いて寝て、かろうじて洗濯物干して、ようかん食べて、ハライチのターン聴いて寝た。


煎茶席を設けますよ、と素敵なお誘いをもらっていたのに、踏ん張れなかった。


きのう、張り切って方々行ったから(といっても知れているし、なんなら一度帰って昼寝もしたのに)、今日は死んでまうかなーとは思ってたけど、いけるんじゃ、と、一瞬自分に期待してしまった。

月のもの、二日目というのもあった。と自分で慰めておこう。


今、実家で夕はんを頂いて自宅に戻らんとするところのバス。

しかし、今日は途中下車して、京都駅の証明写真機で証明写真を撮る。

顔の炎症がひかないので、ずるずると延ばしてきてたけど、もうしゃあない。明日には応募書類をまとめるのだ。

白いシャツを着、布袋にはジャケットほりこんできた。ぼろぼろのすっぴんで撮る。すっぴんっていっても、化粧をまともにしたことないからなあ。いつかする日が来るのだろうか。

丁寧に諦念を

第三水曜、瓶缶ペットボトルに加えて小型金属の日。

 

中学生のころからかれこれ20年近く使ってたはさみの持ち手が割れてたやつ、ついに出した。

 

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ひとつずつ、別れたり諦めたりしていこう。目に見えるものも見えないものも。投げやりじゃなく丁寧に諦念を。始末をつけよう。

階段落ち日記

家の階段から落ちた。この家では、たぶん、2年ぶりくらい、3度目。

おそらくは1段目の着地で足が滑り、一度後頭部をしたたかに打ち付け、そのままお尻を打ちながら一階まで滑り落ちた。


うずくまり、しばらく動けないでいると、ややあって、一瞬全身に汗をかいた。

今日は同居人もいたので、階下で音を聞いて出てきてくれた。そうでなかったら、わんわん泣いていたかもしれない。


出掛けようかという気でいたけど、布団に舞い戻り、また3時間ほど横になった。

今は、急に動くと目の前が暗くなったので、慎重に動いている。あと、尾てい骨と右足の親指が痛い。明日になったらまた、なんかしら痛いところが出そう。


脳が揺れるって、こういうことなんかなあ。レスラーや、ボクサーってすごいなあ。

後頭部を一発やられただけで、3時間は寝転がらないといけないわたしには果てしなく遠い。

 

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2年前に落下した時は、仕事に出掛けようとしている時で、今日よりは数段下から落ちたような気がする。

元より仕事も身体もきつかった日々の中、階段から落ちて、もう全部がいやだという気持ちが開いて泣いた。


雨の日、地階にある喫茶店へ行こうとして、滑り落ちたこともあった。それは前にここに書いたような気もする。


小学生の頃にも一度落ちて、実家の階段は途中曲がっているL字の階段で、その曲がっている段にたまたまダンボールが置いてあって運が良かったと言われた覚えがある。


人は一生のうち、平均で何度階段から落ちるんやろう。

34才、たぶん5回目。

 

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無職で、職業訓練が残り半月、いよいよ切羽詰まり出した今、弱り目に祟り目のように落っこちてしまうなんて、なんかのバチが当たってんのかなあ、と思ってしまう。


神様とか、なにか大きなものが、何か言うてくれてるのかな、とか思ってしまう。


で、振り返りいろいろと思い浮かべて、それは、決して褒められた生活ではないかもしれんけど、そこまで叱られる心当たりがないような気がして、いや、そういうところが慢心なんやろうか…とぐるぐるとする。


そして、今こうして日記を書いていて、もしかして、ここらで一回しっかり泣いとき、ってことやったんかな?と浮かんで、少ししっくりくるような感覚があったけど、それは都合よく思い過ぎやろうか。


泣きたいことにあふれているけど、今の自分を直視する体力もなく、もう長く目をそらしてごまかしてる。


ちょっと前に、じゅうまんとんの加地さんがツイッターに「テトリスの上の方でしのぎ続けるような日々」といった言い回しをしてはっていいなあ、と思ったんやけど、まさにそんなような。足元見たらその瞬間にゲームオーバーする。

 

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階段落ちたあと、寝転がってる時に、このまま吐いて死んでしまうとか、っていう想像をした時にとても投げやりな気持ちになった。


よりよく生きたいと思って選んだはずの選択肢の先で、諦めかかってんだなあ、と思うと悲しくなってきた。


今夜は、今季初の湯たんぽを抱いて、オードリーのラジオを聴きながら寝ることにするから、きっと大丈夫。

たぶん、よりも、きっと、の方が希望が感じられていいですね。昨晩のラジオまだきいてなくてよかった。これから聴けるから。希望っぽいものを摘み上げて。

 

甘苦い

先週くらいから、煎じ薬の漢方を煮出して飲んでる。

 

これだけは、自宅で炒ってからお茶パックなんかに詰めてください、と、おそらく生姜と思われるかけらの入った袋を渡された。

横着して、というか、すっかりお茶パックを買うことを忘れてしまうために、パックされた他の薬とともに、そのままパラパラとやかんに放り込んでいたいたその生姜を、今日ようやくパックに分けて詰めた。

パックに詰めながら、おじいちゃんがこうして、お茶パックに煎茶を詰めている時に横で一緒にやらせてもらっていたことを思い出した。

なんか、あの、くるり、とやるところが好きだったんだな、面白かったんだな、と思い出しながら、9つくるり、とした。

 

先月は命日やって、今年はお墓まいりに行けた。

おじいちゃんが亡くなって3年。

3年前も無職やったけど、そのあと仕事決まったのだった。早く仕事探さないと。

 

甘苦いというのは、漢方の味のこと。

昨日同居人にこの漢方の話をしたら、「甘苦いやつ?」と言ってはったので、それそれーと思いました。

 

ああ、やっと飲み終えた。

昨日からいきなり夜寒い。風呂入って寝よ。

 

あ、今日はすずなりのディナープレート(10月版)を食べました。今月も美味しかった。そして、去年も食べた焼き芋のパウンドケーキが今年も!へっへっへ

 

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紫が蘇る

ワードでちらしを作る授業でうとうとと眠りこけたというだけの、なんにもなかった一日でした。職に就くためのことしなくては。


朝は、予約していた米が炊けていなくて、慌てて炊飯ボタンを押した。

お米を炊くのは、いつぶりだろうか。といって、思い出せないくらい久しぶりのことで。


梅干しと、梅干しのしそも一緒に炊いたごはん。

土曜、食事をご一緒した方から、紫蘇の実の塩漬けを頂いたのをまぶしておにぎりにする。茶碗にすこしよそって、紫蘇の実のせて、立ったまま少し食べる。

眠たい目が、ぱっ、て開くような味、香り。


おにぎりにした分も、通学途中、ひと気の少ない細い道を行く時にもぐもぐと食べる。

美味しい。複雑な香りは美味しい。

日本酒を頂いて、とても米だけの香りとは思えない複雑な香りに感嘆した時を思い出す。

紫蘇の実は、食感もよい。

本当に良いものをいただいた。

残りを大切に食べよう。あの人にも、母にも、梅干し炊き込みごはんにまぶして、おにぎりにして食べてもらいたいなぁ。できるかな。


帰宅してから、煎じ薬を煮出しつつ、今日は茶を点てた。

干菓子は大徳寺納豆入りのもので、こんなに美味しいのか…と、わなわなした。

紫蘇の実も、大徳寺納豆も、美味しさはそれぞれ種類が違うけど、どちらも芳醇なことよ。

 

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写真に撮って、インスタグラムにのっけようとキャプション書く段になって初めて、ああ白と黒のおやつやな、と気づく。


大きな企業のものじゃなくて、いいな、と思うものは、ネットになるべく書くことにする。

なんの力もないけどでも。


毎日心で泣きながら飲んでる煎じ薬の漢方飲んで、洗濯物干したら寝る。

きのうは12時までにお布団入れたのにな。今日は無理そうだな。おやすみ。

 

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そうそう、土曜日にはがきを送った群馬に暮らす友人から、突然ですが京都に来たよ、と朝に連絡があった。

きっと、彼女と入れ違いに今日あたりはがきが届いてるな。嬉しいな。

書いておかないから忘れる

文にしておいたことは、その出来事がタグ付けされたような感じで、思い出したいときにすっと浮かんでくるということが多いと思う。

文にしなかったこと全て忘れてしまうというわけではないけど、歳を重ねるにつれて思う以上に忘れていく、ということも実感するようになった。

最近は固有名詞が全く出てこない。

映画監督や映画の題名が全然思い出せない。きのうも、髪を切ってもらいながら、山下敦弘監督の名前が全然思い出せなかった。

美容師さんは映画好きで、いつも映画の話をたくさんするけど、ええっと、あれ誰でしたっけ、とわたしは五分に一回くらい言っている。

 

それで、おととい、夕はんにお招き頂いたことを書き記したいと思って書き始めたのやけど、すでにちょっと面倒になってきた。

 

パソコンがあれば、わたしはたぶんもっと書くのだろう。関係ないけど、見たいテレビもちゃんと見たいし(ほぼオードリーのテレビ)、録画したり人に差し上げたい時のためにレコーダーも欲しい。ワイファイも忘れずに。

 

パソコンはもちろん、テレビも、カレンダーも、壁掛け時計もない家に暮らしているけど、34歳にして、人並みのものが欲しい気持ちがぽこぽことたまに湧き出るようになってきた。

 

いつでもなんでも遅いから、もうしばらくしたら、切実に結婚したくなったりするのかな、と思うと少し怖い。死の間際には、何を思うんだろうか。あれもしとけば、これもしとけばよかった、と思うんやろうか。前世は草で、来世はきっと草に戻れるから、何も願わなくていいよと思いたい。

 

書こうと思ったこと何も書いてないけど、まあこれにて。祝日のにぎやかなロイホより、ひとりぽっちで。

 

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10月と夏

10月と夏が入り混じったような日だった。混ざりきらず、そこここでムラになっていた。鴨川はもう、モロ、あけすけに夏だった。

 

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今日は楽しみにしていた映画を観た。題材も物語も言ってることも良いと思うのに、すこぶる嫌いで、途中からもうなんならキレていた。観終えて、劇場を出る足が一歩進むたび、「ぷんすか!ぷんすか!」という音が出ていたんじゃないかと思う。嘘だけど。


言ってることも良いことで、劇場内ではすすり泣くような音も聞こえたりしてるし、まあ確かに、普遍的な大切なことを言ってると、頭では思うのやけど、これを好きと思えない自分は、「性根が曲がってる」と突きつけられているようで、それにもまた、いらいらとするのだった。まあ、確かに自分の性根とか根性、曲がってると思うけど。


ただただ、演出が、というか、監督が好きでなかったのだと思う。

ほんまに撮りたいと思って撮ってんのか!と首元掴んで言いたい衝動にぶるぶるしていた。いや、ちゃんと撮ってはんのやけど。


元にされているエッセイをきちんとなぞり、映画冒頭と終わりには、フェリーニの「道」が提示される。私は、フェリーニの「道」も好きじゃないんである。もうこれはしゃあなかったんだろうと思おう。


しかしひどい感想文やなあ。

批評というのができない、ロジカルな考え方というのに憧れる。

せめて、良かったなあと思い出せるところ書いておこう。

「頭で考えないで。手を信じて。」という台詞。

12年に一度しか使われない干支の茶碗。

雨の日は雨の音を聴く。

 

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蒸し暑い日だった。

隣家(アート?スペース)では激アツイベントが催されており、24時を前にまだなんかゴトゴト言うている。そういう意味でも蒸し暑い。まったく。